エジプトの修道院 <エジプト・修道院・宗教>

外部に広まってゆくのは、多数の修道士がこの地を去って他に移住したためともいわれる。

確かに、400年ごろアレクサンドリアのテオフィロスとオリゲネスを支持する4人の修道士との間でおこった「オリゲネス論争」に関連して、アレクサンドリア近辺の修道士は大量にエジプトから追放されたし、407~408年にはナイル川のデルタ地帯がマツィカエ地方の蛮族の侵入を受け、数千人の修道士の集落たるスケティスに壊滅的な打撃を与えた。

そのことを、隠修士アルセニオスArseniosは西ゴート人による410年のローマ略奪になぞらえて、「世界はローマを失い、修道士はスケティスを失った」と語ったから、これも原因の一つに数えられようが、修道院の東西への拡大は5世紀に入る前にすでにかなり進捗(しんちょく)していた。

ヒラリオンとカリトンがパレスチナにラウラlauraとよばれる散居型の修道院を開いたのは、4世紀の前期であったし、シリアのアンティオキア、ベロイア、カルキスの荒野に多数の隠者がいることをヒエロニムスが報告したのは、374年のことである。もっとも、アンティオキアの近くでシメオンSymeon (Simeon)(390ころ―459)が10メートル以上もある柱の上で、30年もの間修行して上下の崇敬を集めたのは5世紀に入ってのことであるが、これはエジプトから入ったものではなかった。

カッパドキア地方に修道院が広まるのも4世紀中のことで、ここではとくにカエサレアの司教バシレイオスの果たした役割が抜群で、彼の著した『聖バシレイオス会則』は、カトリック教会が認める四大修道会則の筆頭にあげられている。

修道院を西方に広めるうえで大きな貢献をしたのは、ルフィヌスLufinus、ヒエロニムス、カッシアヌスCassianusである。

ルフィヌスがエルサレムでの12年間の修道生活ののち修道士とともにローマに帰ったのは396年ころで、ブルガータ聖書の翻訳者ヒエロニムスは、374~379年に『テーベのパウロ伝』を、390~391年に『マルクス伝』『ヒラリオン伝』を著し、404年には『パコミウス修道会則』をラテン語に訳し、エジプト修道院の人と制度を西方に伝えた。
update:2010年01月31日